第29話『運動会の会戦』第4部
第29話『運動会の会戦』第4部
それから、各方面の部隊が続々と集まり始めた。
軽奏歩兵隊。
重奏歩兵隊。
重奏予備兵隊。
重奏防壁兵隊。
左右の機動遊撃隊。
情報士、衛生隊、そして司令部。
普段なら、音楽祭か合同演奏会の準備にしか見えない光景だった。
けれど、誰も笑っていない。
楽器ケースが開かれる。
管体が組み立てられる。
マウスピースが差し込まれる。
リードが湿らされる。
暗譜した曲順が、小さな声で確認される。
合図の旗が、風の中で確かめられる。
フルートの高い音。
クラリネットの柔らかな音。
トロンボーンの重厚な響き。
ホルンの厚い和声。
ユーフォニアムの力強い支え。
サックス隊の濃密な音色。
トランペットの鋭い輝き。
チューバの重低音。
打楽器の乾いた確認音。
益田小学校の運動場に、
約二百名からなる国立音響防衛隊山陰支部標準会戦陣形――
『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』
が静かに完成していく。
「右翼、合図確認!」
アクセントの声が響いた。
「赤旗、散開!」
スタッカートが返す。
「白旗、停止!」
ブリランテが元気よく続く。
「黄旗、後退! 黒旗、防御陣形!」
ペザンテは黙って、予備の水と布を並べていた。
その手つきに迷いはない。
左翼では、カンタービレ軍曹が隊員たちを整えていた。
「ソステヌート、曲順」
「暗譜確認済みです」
「レガート、右翼との接続」
「距離、維持します」
「エネルジコ、前へ出過ぎないこと」
「押忍」
「ドルチェ、負傷者が出たら声を」
「はい。見落としません」
「グラツィオーソ」
「射線、見えています」
「頼もしいですわ」
みんな、慣れている。
怖くないわけじゃない。
でも、怖さの扱い方を知っている。
俺だけが、まだ知らなかった。
「レッド様」
リアルダが、隣に立った。
「大丈夫ですか」
「……何とかなるさ」
「今のは、少しだけ声が小さかったです」
痛いところを突かれた。
「レッド隊長」
カンタービレ軍曹がこちらを見る。
「胸を張ってくださいまし」
「分かってる」
「あなたが震えれば、右翼も震えますわ」
その通りだった。
俺は息を吸った。
少しだけ背筋を伸ばす。
校庭の向こうでは、悪のみなさんがまだ子供たちに振り回されていた。
泣き声。
笑い声。
怒号。
調律音。
山陰の青空の下に、全部が混ざっていた。
その時、伝令の隊員が走ってきた。
「レッド隊長」
俺の喉が鳴った。
「指揮天幕へ。マエストロ軍団長がお呼びです」
風が吹いた。
校庭の端に張られた指揮天幕の入口が、静かに揺れていた。
その向こうだけ、空気が違って見えた。
リアルダが一歩、隣に並ぶ。
「参りましょう、レッド様」
カンタービレ軍曹が、静かに敬礼した。
「右翼と左翼は、こちらで維持しますわ」
ブリランテが胸の前で拳を握る。
「隊長様、ボクたち待ってます!」
アクセントが叫ぶ。
「隊長、堂々と行ってください!」
スタッカートが笑う。
「噛まないようにっすよ」
ペザンテが、小さく頷く。
「……行ってらっしゃい」
俺は、うまく笑えなかった。
それでも、少しだけ口角を上げた。
「何とかなるさ」
今度は、さっきより少しだけ声が出た。
俺は天幕へ向かって歩き出す。
運動場の土を踏むたび、靴の裏で乾いた音がした。
赤白の万国旗が、頭上で揺れている。
白い校舎の窓に、青空が映っている。
外の運動会とは違う音が、天幕の中から漏れていた。
低い無線のノイズ。
紙をめくる音。
誰かの短い命令。
俺は一度だけ振り返った。
仲間たちがいた。
子供たちがいた。
泣いている母親がいた。
悪のみなさんがいた。
そして、そのすべてを守るために集結した約二百名の音術師たちがいた。
益田小学校の運動場に、全部があった。
俺はトランペットケースを握り直す。
まだ膝は震えていた。
それでも、ケースだけは離さなかった。
そして、指揮天幕の前で足を止めた。
次の一歩を踏み出せば、もう戻れない。
俺は息を吸った。
第30話『天幕』(前編)
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