第15話『覚悟』

第15話『覚悟』


軍用車が、砂利を噛みながら急停止した。

「到着!」

リアルダの声と同時に、全員が車外へ飛び出す。

そこは、益田市匹見町紙祖地区。

谷あいに広がる、小さな集落だった。

山々に囲まれた静かな里。

田畑の向こうには木造の民家が並び、その奥を澄んだ川が流れている。

普段なら、風の音と水の音だけが聞こえる場所なのだろう。

けれど今日は、違っていた。

「急いで!」

「こっちです!」

集落の入口では、十数名の男女が住民を避難させていた。

年配の男性が、ホルンを背負いながら子どもの手を引いている。

クラリネットを持った女性が、高齢者の背中を支えていた。

サックスを肩に掛けた青年が、山道の奥を何度も振り返っている。

リアルダが駆け寄る。

「山陰西部方面第一遊撃トランペット隊、到着しました!」

ホルンを背負った男性が、こちらを振り向いた。

日に焼けた顔。

太い腕。

山で働いてきた人の手。

その視線が、俺のトランペットケースで一度止まる。

「そのラッパ。」

「本部さんか。」

俺は敬礼した。

「山陰西部方面第一遊撃トランペット隊、隊長のレッドです。」

男性は帽子を取る。

「匹見地区音響団、団長のヤマガタじゃ。」

そして、短く言った。

「助かった。」

飾り気のない一言だった。

だからこそ、重かった。

クラリネットを持った女性が、こちらへ歩み寄る。

「フジエです。」

「避難誘導を担当しています。」

「お年寄りは全員、集落の外へ出ました。」

続いて、サックスを肩に掛けた青年が山道を指差した。

「オカベです。」

「敵は、あの奥です。」

「音が近くなっています。」

耳を澄ます。

山道の奥から、重く濁った不協和音が聞こえてくる。

澄んだ谷の空気へ、黒い墨を一滴落としたような音だった。

リアルダが双眼鏡を構える。

「確認。」

「敵、一体。」

「危険度Bランク。」

「進行速度、予測より速いです。」

「集落中心部へ向かっています。」

カンタービレ軍曹が地図を開いた。

「現在位置はこちら。」

「敵はこちらですわ。」

一本道。

両側は山。

逃げ道は少ない。

「ここを突破されると、集会所まで一直線です。」

ヤマガタ団長が頷く。

「ワシら音響団で、ここまで何とか時間を稼いどった。」

ホルンを持つ腕には、泥が付いている。

「じゃが、相手が悪い。」

フジエは疲れた表情のまま、それでも凛と前を向いていた。

「音で押し返そうとしても、すぐに崩されます。」

オカベがサックスを握りしめる。

「足止めが限界です。」

俺は三人を見た。

軍人じゃない。

音術師でもない。

普段は、この土地で暮らしている人たち。

それでも、自分たちの故郷を守るために楽器を取っていた。

「ヤマガタ団長。」

「皆さんは、まだ動けますか。」

ヤマガタ団長は笑った。

「倒すことはできん。」

「じゃが。」

背負っていたホルンを軽く叩く。

「この山は。」

「そう簡単には渡さん。」

音響団の面々が、静かに頷いた。

その覚悟は、俺たち遊撃隊と何も変わらなかった。

その時、リアルダの無線が鳴る。

『こちら集会所!』

『最後の児童三名、避難完了!』

リアルダが顔を上げた。

「レッド様!」

「住民避難、完了です!」

一瞬だけ、場に安堵が広がる。

子どもたちは逃げた。

住民も逃げた。

守るべき命は、ひとまず遠ざかった。

だが、山道の奥から聞こえる不協和音は、まだ近づいている。

カンタービレ軍曹が俺へ向き直った。

「隊長。」

「はい。」

「住民避難は完了しました。」

「教範通りであれば、ここで撤退ですわ。」

静かな声だった。

しかし、その言葉は重い。

「音響士および初級音術師のみで、Bランクと交戦することは禁じられています。」

「救援が望めない以上、部隊を温存すべきです。」

一度だけ、山道の奥を見る。

「血の涙を流してでも撤退。」

「それが、北方戦線の教範ですわ。」

誰も口を開かない。

アクセントも。

スタッカートも。

ブリランテも。

音響団の人たちでさえ、何も言わなかった。

カンタービレ軍曹は正しい。

教範は、誰かを臆病者にするためのものではない。

生きて帰るためにある。

部隊を全滅させないためにある。

俺は山道の奥を見た。

不協和音は、少しずつ近づいている。

このまま撤退すれば、誰も死なないかもしれない。

敵は、目的を果たせばやがて消える。

この場所も、時間が経てば静けさを取り戻すのかもしれない。

分かっている。

分かっているのに。

俺は、足を引けなかった。

「音響団の皆さんだけを、残してはいけません。」

カンタービレ軍曹の視線が俺へ向く。

「隊長。」

「彼らも、その覚悟でここに立っておられますわ。」

「はい。」

俺は頷く。

「だからこそです。」

山から風が吹いた。

ヤマガタ団長の帽子の紐が、小さく揺れる。

「音響団の皆さんが稼いでくれた時間を。」

「今度は、俺たちが受け取る番です。」

カンタービレ軍曹は、しばらく黙って俺を見つめた。

そして、静かに言った。

「隊長。」

「最後に一つだけ。」

「根拠はございますか。」

俺は少し困って笑った。

「ありません。」

正直に答える。

「怖いです。」

ブリランテが息を呑む。

アクセントの拳が、わずかに固まる。

「今でも、足が震えています。」

誰も茶化さない。

誰も笑わない。

山道の奥から、不協和音がまた一つ近づいた。

頭の中に、昔聞いた怒鳴り声がよぎる。

『迷うな!』

思わず、小さく笑った。

「分かってますよ。」

誰へ向けた言葉でもなかった。

俺はニューヨークモデルのケースを開ける。

ラッカーのベルが、山の光を受けて静かに輝いた。

「でも。」

「怖いから助けない、なんて。」

「そんな隊長には、なりたくありません。」

俺はトランペットを構えた。

「何とかなるさ。」

その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。

しばらく、誰も動かなかった。

やがて、カンタービレ軍曹が静かに敬礼する。

「……承知いたしました。」

「隊長命令に従いますわ。」

そして隊員たちへ向き直る。

「総員。」

「戦闘配置。」

「了解!」

遊撃隊が一斉に動いた。

アクセントが前へ出る。

スタッカートが後方を確認する。

ペザンテが音響団の前に立つ。

ソステヌートとレガートが位置を調整する。

ドルチェが避難路側へ目を向ける。

グラヴィオーソは山道の奥を静かに見据えた。

ブリランテは震える手でトランペットを握りしめていた。

それでも、俺を見て小さく頷いた。

ヤマガタ団長がホルンを構える。

「ワシらも下がりながら支える。」

フジエがクラリネットを抱き直した。

「避難路の防御は任せてください。」

オカベがサックスを肩へ掛け直す。

「最後尾、見ます。」

山の風が吹く。

鳥の声が聞こえた。

その静けさを裂くように。

遠くから。

濁った不協和音が近づいてくる。

俺はニューヨークモデルを構えた。

匹見の山々は、今日も変わらず美しかった。

だからこそ。

守りたかった。


第16話『邂逅』(前編)
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2026年07月04日