第16話『邂逅』(前編)
第16話『邂逅』(前編)
匹見の山あいに、不協和音が響く。
ズゥン……。
ズゥン……。
谷全体が、小さく震えた。
木々に止まっていた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
澄み切っていた山の空気が、音だけで重く沈んでいくようだった。
山道の奥から、黒い影がゆっくりと姿を現す。
全身を覆う、歪んだ音の鎧。
人の形をしている。
だが、人ではない。
Bランク不協和音。
その姿を見た瞬間だった。
ゾクリ――。
背筋を冷たいものが走る。
息が浅くなる。
アクセントの拳が、小さく震えた。
「な……。」
思わず喉が鳴る。
スタッカートも目を見開いた。
「これが……Bランク……。」
ブリランテの顔から血の気が引く。
「隊長様……。」
ペザンテでさえ、無意識に半歩だけ後ろへ下がっていた。
神格を持つ存在。
その威圧感だけで、人の心を折ろうとしてくる。
俺も同じだった。
(怖い。)
心臓が痛いほど脈打つ。
逃げたい。
帰りたい。
足が動かない。
その時だった。
「レッド様!」
リアルダの声が、山あいへ響いた。
我に返る。
「気温十九度!」
「湿度七十八パーセント!」
「谷風、北西より毎秒二メートル!」
「チューニング管、一・五ミリ抜いてください!」
「了解!」
俺は反射的に主管を引いた。
カチッ。
ほんの僅かな調整。
だが、その僅かが音程を左右する。
リアルダは双眼鏡を覗いたまま続ける。
「敵、有効調律推定!」
「四四一・五ヘルツ!」
「許容誤差、〇・二ヘルツ以内!」
「了解!」
俺は隊員たちを振り返る。
「全員!」
「四四一・五!」
「調律!」
十一本のトランペットが一斉に構えられる。
『パァ────』
澄んだ音が谷へ吸い込まれ、山々へ広がっていく。
リアルダは耳を澄ませた。
「あと〇・一!」
「ブリランテさん、高いです!」
「は、はい!」
ブリランテが慌てて主管をわずかに抜く。
再び音が重なった。
『パァ────』
今度は、美しく揃う。
リアルダは静かに頷いた。
「調律完了。」
「敵弱点と一致。」
隊員たちの表情から、少しだけ緊張が和らぐ。
数字は嘘をつかない。
リアルダの分析は、誰よりも信頼できた。
カンタービレ軍曹が一歩前へ出る。
「隊長。」
「教範通りなら二列横隊、防御重視ですわ。」
俺は返事をせず、ゆっくりと谷を見上げた。
両側を切り立った岩肌が囲んでいる。
谷全体が、天然の演奏ホールだった。
俺は足元の小石を拾い、岩壁へ軽く放る。
カツン。
少し遅れて。
カツン……
カツン……
音が返ってくる。
今度は、自分の手を軽く叩く。
パンッ。
パン……
パン……
静かな残響が、谷いっぱいへ広がった。
(使える。)
士官学校で教わった音響地形。
演奏会場だけではない。
戦場でも、音は地形に従う。
俺はリアルダを見る。
リアルダも、同じ結論へ辿り着いていた。
「レッド様。」
「残響時間、およそ一・八秒。」
「山肌左側の反射が強いです。」
「右側は杉林で吸音されています。」
「つまり。」
「左の岩壁を利用すれば、倍音を重ねられます。」
俺は静かに頷いた。
「ありがとう。」
「勝機が見えた。」
すぐに隊員たちを見る。
「カンタービレ軍曹。」
「はい。」
「左翼は正面。」
「防御重視。」
「サードを厚く。」
「時間を稼いでください。」
「承知いたしました。」
カンタービレ軍曹は振り返る。
「左翼!」
「サード前進!」
「了解!」
テヌートたちが一歩前へ出る。
重厚な防御陣形が完成した。
「アクセント!」
「はい!」
「右翼は俺と来い。」
「谷の左側へ回る。」
スタッカートが驚く。
「隊長!」
「回り込むんですか!」
「いや。」
俺は首を横へ振った。
「囮は左翼。」
「敵が正面へ意識を向けた瞬間。」
谷の岩壁を見上げる。
「あの残響を使って、一撃で仕留める。」
リアルダが静かに補足した。
「岩壁反射を利用すると、倍音の重なりが最大三割増加します。」
「通常では届かない音圧になります。」
隊員たちは一斉に岩壁を見上げた。
そんな戦い方があるのか。
俺にとっては士官学校で学んだ応用だった。
だが。
リアルダの分析がなければ、実戦では使えない。
「総員。」
俺はニューヨークモデルを構える。
怖い。
今でも心臓は激しく鳴っている。
それでも。
仲間たちの姿を見ると、不思議と足が前へ出た。
「何とかなるさ。」
アクセントが大きく頷く。
「はい!」
ブリランテも笑顔で応える。
「隊長様!」
「ボク、信じます!」
その瞬間。
山あいの静寂を破るように。
Bランクが、ゆっくりと一歩を踏み出した。
第17話『邂逅』(後編)
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