第32話『士官の心得』
第32話『士官の心得』
「レッド君。」
天幕を出ようとした俺を、マエストロが呼び止めた。
「少しだけいいか。」
「はい!」
俺は慌てて敬礼する。
「そんな固くなるな。」
マエストロは笑いながら校舎裏へ歩き始めた。
俺も後を追う。
運動場から少し離れるだけで、不思議なくらい静かだった。
初夏の風が木々を揺らす。
校舎の白い壁に、柔らかな木漏れ日が揺れている。
さっきまであれほど騒がしかった運動場が、遠い世界のようだった。
マエストロは立ち止まる。
何も言わず右手を差し出した。
握手だと思い、俺も手を伸ばす。
その瞬間だった。
「……。」
震えていた。
マエストロの手が。
小さく。
だが確かに。
俺は思わず顔を上げた。
マエストロは苦笑した。
「驚いたか。」
「怖いんだよ。」
「毎回な。」
俺は何も言えなかった。
戦場で笑っていた人。
ブラックジョークを飛ばしていた人。
その手が震えている。
「レッド君。」
「士官が一番怖いものは何だと思う?」
「敵……でしょうか。」
「違う。」
「自分が傷付くこと。」
「違う。」
「死ぬこと……。」
「それも違う。」
マエストロは俺の胸を軽く叩いた。
「判断を間違えることだ。」
風が吹いた。
運動場から子ども達の笑い声が聞こえる。
「右へ行けと言えば。」
「右で誰かが倒れる。」
「左へ行けと言えば。」
「左で誰かが倒れる。」
静かな声だった。
「部下の命を預かるってのは、そういうことだ。」
俺は黙って聞く。
「だから。」
「怖くても笑う。」
「部下が震えていたら、お前が先に笑え。」
「敵が吠えたら、もっと大きく吠えろ。」
「恐怖を笑い飛ばせ。」
その言葉は演説ではなく。
十年間、北方戦線を生き延びた男の実感だった。
「でも……。」
俺は思わず口を開く。
「今の俺に、そんなハッタリなんてできません。」
「どうしたら、そんな風になれるんですか。」
マエストロはニヤリと笑った。
「勉強。」
そう言って。
どさっ。
俺の胸へ本を積み上げた。
「うわっ!」
思わず抱え込む。
『ローマ軍団戦陣訓』
『世界の名将演説集』
『戦争映画に学ぶ士官のブラックジョーク』
『負け戦を勝ち戦っぽく見せる話術』
「……。」
一冊だけ。
どう見ても空気が違う。
金髪碧眼。
露出度の高い美女が表紙で微笑んでいる。
俺は固まった。
「マエストロ。」
「何ですか、この最後の一冊。」
「士官の教養。」
「絶対違いますよね。」
「メンタルケア。」
「どこがですか。」
「人類の芸術。」
「方向性がおかしいです。」
マエストロは真顔だった。
「レッド君。」
「はい。」
「男はな。」
「心に余裕がなくなると。」
「演奏も人生も固くなる。」
「……。」
「だから美しいものを見る。」
「それも立派な士官教育だ。」
俺は返事に困った。
その時だった。
「マエストロ様。」
背後から冷たい声。
空気が一気に冷える。
振り向く。
リアルダだった。
いつもの笑顔。
……ではない。
「またですか。」
「新人に、その手の本を渡しているのは。」
「げ。」
マエストロの顔が引きつる。
リアルダは俺の腕の中へ手を伸ばした。
一番下の一冊だけを、見事な手際で抜き取る。
「没収します。」
「ああああっ!!」
マエストロが頭を抱えた。
「俺の戦略物資が!」
「不要です。」
「前線士官の精神安定剤だぞ!」
「不要です。」
「芸術作品なんだ!」
「不要です。」
「せめて表紙だけ!」
「不要です。」
容赦がなかった。
俺は思わず吹き出す。
マエストロも諦めたように笑い出した。
「あーっはっはっは!」
「見ただろ、レッド君。」
「北方戦線で一番怖いのは。」
リアルダを見る。
「情報士の検閲だ。」
リアルダはにっこり微笑んだ。
「レッド様。」
「音術師様は国家の財産です。」
「悪い遊びは覚えなくて結構です。」
「……はい。」
素直に返事をすると。
マエストロが肩をすくめる。
「真面目だねぇ。」
そして。
運動場の方を見た。
集結ラッパが鳴る。
軽奏歩兵隊が最前列へ展開する。
重奏歩兵隊が中央戦列を形成する。
重奏予備兵隊が後方で待機する。
重奏防壁兵隊が最後尾で音響防壁を展開する。
左右では、俺たち第一トランペット遊撃隊が機動遊撃隊として配置についた。
約二百名の音術師たちによる標準会戦陣形――
『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』
が、静かに完成する。
いよいよ始まる。
マエストロは帽子を深くかぶり直した。
「さて。」
さっきまでの軽さが消える。
「恐怖を笑い飛ばす時間だ。」
そう言って。
戦場へ歩き出した。
その背中は。
ほんの少しだけ。
もう震えてはいなかった。
第33話『アラクネ山陰遠征軍』
https://www.c-able.ne.jp/~y-info/posts/blog54.html
ウルセンジャー小説ガイド
https://www.c-able.ne.jp/~y-info/contact1.html
