第60話『アラクネ戦記/蜘蛛の陣』
第60話『アラクネ戦記/蜘蛛の陣』
春風が丘を渡っていた。
若草が揺れ、空には白い雲が流れる。
戦の朝とは思えないほど、穏やかな景色だった。
アラクネは丘の上で、一枚の巻物を広げていた。
東の国から来た神が残していった巻物。
幾重にも重なる線。
円。
三角。
そして、蜘蛛の巣のように張り巡らされた陣形。
「……不思議ですわ。」
隣ではカリストスが首を傾げている。
「理解できますか。」
アラクネは静かに頷いた。
「すべてではありません。」
「ですが。」
「兵が互いを支え合う形は、よく分かります。」
風が巻物を揺らす。
その時、見張りの兵が駆け上がってきた。
「敵軍です!」
「北の丘より接近!」
アラクネは巻物を丁寧に畳み、胸へしまった。
「全軍、配置につきなさい。」
◇
敵軍は倍近い兵力だった。
槍が並び、
盾が光る。
兵たちの表情にも緊張が走る。
「アラクネ様。」
メリッサが小声で尋ねる。
「正面から受けますか。」
アラクネは首を横へ振った。
「今日は違います。」
丘へ視線を向ける。
「皆、半歩だけ離れなさい。」
「え……?」
兵たちは戸惑った。
いつもなら盾を密着させる。
だが今日は、小さな隙間が生まれる。
「その隙間を。」
「仲間のための道にします。」
誰も意味を理解できなかった。
それでも兵たちは従った。
◇
敵軍が突撃する。
大地が震える。
「今!」
盾がぶつかる。
槍が交わる。
その瞬間。
「右へ。」
アラクネの声が響いた。
兵たちは半歩だけ横へ動く。
空いた隙間へ、
後列の兵が滑るように入り込む。
疲れた者と、
まだ力の残る者が自然に入れ替わる。
まるで一枚の布を織るように。
「これは……。」
テオドロスが息を呑む。
「戦列が、崩れない。」
誰かが倒れても、
誰かが支える。
一人で耐える戦ではなく、
皆で支える戦。
それは今まで誰も見たことのない陣だった。
◇
しかし。
敵将もまた歴戦の猛者だった。
「側面を突け!」
号令とともに騎兵が回り込む。
左翼が揺れる。
「アラクネ様!」
カリストスが叫ぶ。
「左が!」
アラクネは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして胸の中で、あの言葉を思い出す。
『戦は、人を生かすための術でもあります。』
静かに目を開く。
「全軍。」
「円を描きなさい。」
その一言だった。
兵たちは戸惑いながらも動く。
前だけを向いていた盾が、
少しずつ弧を描き始める。
蜘蛛の巣のように。
糸が重なり合うように。
敵の突撃は勢いを失い、
やがて行き場をなくした。
カリストスは思わず笑みをこぼす。
「包まれています。」
「敵が、自分から。」
アラクネは静かに頷いた。
「蜘蛛は。」
「追いかけません。」
「待つのです。」
◇
やがて敵軍は退却を始めた。
追撃命令は出ない。
兵たちは互いの肩を支えながら丘へ戻ってくる。
誰も歓声を上げない。
ただ、生きて帰れたことを確かめるように、
静かに笑い合っていた。
夕陽が草原を黄金色に染める。
アラクネは巻物を取り出し、
そっと胸へ抱いた。
「ありがとうございました。」
誰へ向けた言葉なのか。
東の神へか。
風へか。
それとも、
まだ見ぬ東の国そのものへか。
答える者はいない。
ただ一羽の白い鳥だけが、
東の空へ向かって静かに羽ばたいていった。
第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』
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