第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』

第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』


秋だった。

草原は黄金色に染まり、乾いた風が丘を渡っていく。

戦は、しばらく途絶えていた。

兵たちは槍を磨き、

盾を修理し、

久しぶりに家族へ手紙を書いている。

静かな午後だった。

アラクネは一人、丘へ立っていた。

遠くの海を眺める。

あの日、白い鳥が飛んでいった方角。

東。

まだ見ぬ国だった。

「アラクネ様。」

カリストスが駆け寄る。

「東から船が入港しました。」

「商船ですか。」

「……いえ。」

珍しく返事が歯切れ悪い。

「どうしました。」

「船員が申します。」

「船には、人が一人しか乗っていなかったと。」

アラクネは少しだけ眉を上げた。

「一人で海を?」

「はい。」

「しかも。」

「船を漕いだ形跡がありません。」

風が止んだ。



港へ着く。

人だかりができていた。

誰も近付こうとしない。

ただ、静かに道を空けている。

その先に。

一人の女が立っていた。

艶やかな黒髪。

幾重にも重なる東方の衣。

優しく細められた瞳。

年齢は分からない。

若くも見える。

年老いているようにも見える。

ただ、不思議と。

そこへ立っているだけで、

周囲の空気が穏やかになっていた。

女は海を眺めながら、小さく笑う。

「思うたより。」

「遠い旅どした。」

聞き慣れない言葉。

けれど、不思議と耳に心地よかった。

アラクネは歩み寄る。

「あなたは。」

女は静かに振り向く。

二人の視線が重なった。

その瞬間だった。

胸の奥が、かすかに震える。

恐怖ではない。

威圧でもない。

深い森へ足を踏み入れた時のような。

静かな畏れだった。

女はゆっくり頭を下げる。

「初めまして。」

「西の戦術家。」

その声は穏やかだった。

「わらわは。」

「東の島国より参りました。」

アラクネも一礼する。

「アラクネと申します。」

「よう知っております。」

女は微笑んだ。

「風が。」

「そなたのお話を運んできてくれました。」

風。

その言葉だけで。

なぜか嘘ではないと思えた。

港には沈黙が流れる。

波だけが岸壁を叩いていた。



二人は港を離れ、

小高い丘を歩いた。

兵たちは遠くから見守るだけだった。

女は草花を眺めながら言う。

「美しい土地どすな。」

「ええ。」

「戦ばかりですが。」

女は首を横へ振る。

「戦があるから。」

「美しいのではありまへん。」

一輪の花へ目を向ける。

「それでも咲く花が、美しいのどす。」

アラクネは、その花を見る。

誰も見ていない小さな花だった。

「そなた。」

女は静かに尋ねた。

「何のために戦うておるのどす。」

アラクネは少し考えた。

空を見上げる。

兵たちを見る。

そして答えた。

「皆を。」

「生きて帰すためです。」

女は目を細める。

「そうどすか。」

その一言だけだった。

評価もしない。

否定もしない。

ただ。

少しだけ嬉しそうに笑った。

風が吹く。

草が揺れる。

秋空には、一羽の白い鳥が舞っていた。

女は、その鳥を見上げながら呟く。

「神とは。」

「人より強い者ではありまへん。」

少しだけ間を置く。

「人の願いを。」

「忘れぬ者どす。」

アラクネは静かに聞いていた。

その言葉は、

まるで秋風のように胸へ残った。



夕暮れ。

別れの時が来る。

女は船へ向かう。

アラクネは港まで見送った。

「また、お会いできますか。」

その問いに。

女は振り返る。

穏やかに笑う。

「ご縁があれば。」

「きっと。」

船は静かに沖へ出る。

帆を張ることもなく。

櫂を漕ぐこともなく。

ただ風に乗るように、

東の海へ消えていった。

アラクネは、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

名前も聞かなかった。

何者なのかも知らない。

それでも。

胸のどこかで思っていた。

――あの方は。

きっと、神だったのだろう。

秋風だけが、

静かに海を渡っていった。


第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』
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2026年07月04日