第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』
第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』
秋だった。
草原は黄金色に染まり、乾いた風が丘を渡っていく。
戦は、しばらく途絶えていた。
兵たちは槍を磨き、
盾を修理し、
久しぶりに家族へ手紙を書いている。
静かな午後だった。
アラクネは一人、丘へ立っていた。
遠くの海を眺める。
あの日、白い鳥が飛んでいった方角。
東。
まだ見ぬ国だった。
「アラクネ様。」
カリストスが駆け寄る。
「東から船が入港しました。」
「商船ですか。」
「……いえ。」
珍しく返事が歯切れ悪い。
「どうしました。」
「船員が申します。」
「船には、人が一人しか乗っていなかったと。」
アラクネは少しだけ眉を上げた。
「一人で海を?」
「はい。」
「しかも。」
「船を漕いだ形跡がありません。」
風が止んだ。
◇
港へ着く。
人だかりができていた。
誰も近付こうとしない。
ただ、静かに道を空けている。
その先に。
一人の女が立っていた。
艶やかな黒髪。
幾重にも重なる東方の衣。
優しく細められた瞳。
年齢は分からない。
若くも見える。
年老いているようにも見える。
ただ、不思議と。
そこへ立っているだけで、
周囲の空気が穏やかになっていた。
女は海を眺めながら、小さく笑う。
「思うたより。」
「遠い旅どした。」
聞き慣れない言葉。
けれど、不思議と耳に心地よかった。
アラクネは歩み寄る。
「あなたは。」
女は静かに振り向く。
二人の視線が重なった。
その瞬間だった。
胸の奥が、かすかに震える。
恐怖ではない。
威圧でもない。
深い森へ足を踏み入れた時のような。
静かな畏れだった。
女はゆっくり頭を下げる。
「初めまして。」
「西の戦術家。」
その声は穏やかだった。
「わらわは。」
「東の島国より参りました。」
アラクネも一礼する。
「アラクネと申します。」
「よう知っております。」
女は微笑んだ。
「風が。」
「そなたのお話を運んできてくれました。」
風。
その言葉だけで。
なぜか嘘ではないと思えた。
港には沈黙が流れる。
波だけが岸壁を叩いていた。
◇
二人は港を離れ、
小高い丘を歩いた。
兵たちは遠くから見守るだけだった。
女は草花を眺めながら言う。
「美しい土地どすな。」
「ええ。」
「戦ばかりですが。」
女は首を横へ振る。
「戦があるから。」
「美しいのではありまへん。」
一輪の花へ目を向ける。
「それでも咲く花が、美しいのどす。」
アラクネは、その花を見る。
誰も見ていない小さな花だった。
「そなた。」
女は静かに尋ねた。
「何のために戦うておるのどす。」
アラクネは少し考えた。
空を見上げる。
兵たちを見る。
そして答えた。
「皆を。」
「生きて帰すためです。」
女は目を細める。
「そうどすか。」
その一言だけだった。
評価もしない。
否定もしない。
ただ。
少しだけ嬉しそうに笑った。
風が吹く。
草が揺れる。
秋空には、一羽の白い鳥が舞っていた。
女は、その鳥を見上げながら呟く。
「神とは。」
「人より強い者ではありまへん。」
少しだけ間を置く。
「人の願いを。」
「忘れぬ者どす。」
アラクネは静かに聞いていた。
その言葉は、
まるで秋風のように胸へ残った。
◇
夕暮れ。
別れの時が来る。
女は船へ向かう。
アラクネは港まで見送った。
「また、お会いできますか。」
その問いに。
女は振り返る。
穏やかに笑う。
「ご縁があれば。」
「きっと。」
船は静かに沖へ出る。
帆を張ることもなく。
櫂を漕ぐこともなく。
ただ風に乗るように、
東の海へ消えていった。
アラクネは、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
名前も聞かなかった。
何者なのかも知らない。
それでも。
胸のどこかで思っていた。
――あの方は。
きっと、神だったのだろう。
秋風だけが、
静かに海を渡っていった。
第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』
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