第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』

第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』


季節は巡る。

春が来て。

夏が過ぎ。

秋が色づき。

また冬が訪れた。

アラクネは変わらず戦場に立っていた。

兵の先頭ではない。

丘の上。

軍全体が見渡せる場所。

今日も静かに風を読んでいる。

「右翼。」

「半歩だけ前へ。」

「左翼。」

「深追いしてはいけません。」

兵たちは動く。

一人ではない。

一つの生き物のように。

その姿を見ながら、アラクネは小さく息をついた。

「……今日も皆、生きて帰れそうですわ。」

その時だった。

風向きが変わる。

冷たい冬の風ではない。

どこか懐かしい。

東から吹く、柔らかな風だった。

「……。」

丘の向こうに、一人の女が立っていた。

艶やかな黒髪。

朱を織り込んだ衣。

穏やかな笑み。

あの日、港で出会った女性だった。

アラクネは静かに歩み寄る。

「また、お会いできました。」

女は嬉しそうに頷いた。

「ご縁がありましたさかい。」

二人は並んで丘へ立つ。

眼下では兵たちが隊列を組み直している。

女はその光景を見つめた。

「美しいどすな。」

アラクネは少し照れくさそうに笑う。

「ありがとうございます。」

「まだ未熟ですが。」

女は首を横へ振った。

「未熟やからこそ。」

「伸びるのどす。」

沈黙。

風だけが草を揺らす。

やがて女は、静かに口を開いた。

「わらわの国。」

「東の島国では。」

「神も、人も。」

「長い時を共に歩みます。」

アラクネは耳を傾ける。

「神は。」

「命令するためにおるのではありまへん。」

「迷う人を。」

「少しだけ照らすために、おるのどす。」

その言葉は。

まるで月明かりのように静かだった。

女はアラクネを見る。

「そなた。」

「遠い未来を見てみとうありまへんか。」

アラクネは目を丸くした。

「未来……。」

「ええ。」

「千年先の、人の世どす。」

兵たちの笑い声が風に乗る。

誰かが仲間を起こし。

誰かが盾を運び。

誰かが夕焼けを見上げて笑っている。

アラクネは、その光景を静かに見つめた。

「もし。」

「その未来にも。」

「皆を生きて帰す戦があるなら。」

少しだけ笑う。

「見てみたいですわ。」

女も微笑んだ。

「そう言うと思うておりました。」

袖の中から、小さな木札を取り出す。

そこには東の文字が刻まれていた。

意味は分からない。

けれど、不思議と温かかった。

「これを。」

「お預けいたします。」

「ご縁の証どす。」

アラクネは両手で受け取る。

胸の前で、大切そうに抱いた。

風が吹く。

白い鳥が東へ飛んでいく。

女は空を見上げながら、小さく呟いた。

「いつの日か。」

「西の神と。」

「東の神は。」

「同じ空の下で、人を見守ることになるでしょう。」

アラクネは、その意味を理解できなかった。

けれど。

その言葉だけは、不思議と胸へ残った。



――千年以上の時が流れる。

京都。

桜が静かに舞う庭園。

一人の女が縁側で微笑んでいた。

「よう来てくれましたな。」

穏やかな京言葉が響く。

アラクネは片膝をつく。

「初めまして。」

「山陰方面遠征軍司令官。」

「アラクネと申します。」

土蜘蛛は嬉しそうに目を細めた。

「初めまして……では、おまへんな。」

アラクネは顔を上げる。

「え……?」

土蜘蛛は庭へ舞う桜を見つめる。

「ずっと昔。」

「海の向こうで、一度お会いしております。」

その瞬間。

秋の丘。

東から吹いた風。

名も知らぬ女性。

胸に抱いた木札。

すべてが、一つにつながった。

アラクネは思わず息を呑む。

「……あの時の。」

土蜘蛛は、くすりと笑った。

「ご縁とは。」

「不思議なものどすな。」

桜の花びらが、一枚。

二人の間へ舞い降りる。

土蜘蛛は静かに立ち上がった。

「アラクネ。」

「これから先。」

「そなたには、多くの戦を任せることになります。」

一拍置く。

「けれど。」

「忘れんといておくれやす。」

穏やかな笑みは、そのままだった。

「勝つことより。」

「生きて帰ること。」

「それが、わらわの願いどす。」

アラクネは深く頭を垂れる。

「はい、お姉様。」

その声には、迷いがなかった。

庭を渡る風が、桜を揺らす。

その日、京都に新たな軍団長が誕生した。

後に山陰方面遠征軍を率い、「レギオンのアラクネ」と呼ばれることになる、一人の武人である。

そしてその心には、遠い昔、東の海から吹いてきた風が、静かに生き続けていた。

― アラクネ戦記・完 ―


第63話『夜間訓練命令』
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2026年07月04日