第63話『夜間訓練命令』

第63話『夜間訓練命令』


5月上旬。

夕暮れ。

山陰西部方面第一軍団。

一日の訓練を終えた隊員たちは、それぞれ楽器を手入れしながら帰り支度を始めていた。

俺もトランペットをケースへ収めた、その時だった。

「レッド君。」

聞き慣れた声が隊舎へ響く。

「軍団長。」

振り返ると、マエストロがいつもの気軽な笑みを浮かべて立っていた。

「ちょっと時間あるか。」

「はい。」

マエストロは胸ポケットから一枚の紙を取り出し、俺へ手渡した。

夜間訓練命令
集合時刻 十八時
集合場所 益田駅前
服装 私服
参加者
レッド・ソステヌート・ペザンテ
指揮官 山陰西部方面第一軍団長 マエストロ

「私服ですか?」

思わず聞き返した。

「ああ。」

「市街地でやる。」

それだけ言うと、マエストロはニヤリと笑う。

「内容は現地で説明する。」

「了解しました。」

俺が答える横で、ソステヌートが命令書を覗き込んだ。

「夜間、市街地、私服。」

「潜入行動を想定した対人訓練と推測します。」

ペザンテも短く頷く。

「妥当。」

俺は命令書を畳みながら笑った。

「何とかなるさ。」

マエストロは満足そうに頷く。

「その調子だ。」

「遅刻するなよ。」

そう言い残し、隊舎を後にした。

俺たちは顔を見合わせる。

市街地訓練。

怪人が相手か。

それとも。

何か別の任務だろうか。

誰にも分からなかった。



午後六時。

益田駅前。

夕焼けに照らされた駅前広場には、仕事帰りの会社員や学生たちが行き交っていた。

制服姿ではない俺たちは、少しだけ落ち着かなかった。

「隊長。」

ソステヌートが小声で言う。

「敵影ありません。」

「そうだな。」

俺も周囲へ目を向ける。

人の流れ。

建物。

路地。

無意識に遮蔽物まで確認してしまう。

「完全に職業病ですね。」

ソステヌートが苦笑した。

「北方戦線じゃ癖になるからな。」

俺も笑う。

「平和な町なのに。」

「いつでも戦える場所を探してる。」

ペザンテが静かに言った。

「生き残る。」

「基本です。」

その時だった。

「あっ!」

元気な子どもの声が響いた。

「ウルセンジャーのお兄ちゃんだ!」

振り向くと、買い物帰りらしい子どもたちが、こちらへ向かって大きく手を振っていた。

「こんばんはー!」

「ウルセンジャー!」

俺は少し照れくさく笑いながら、手を振り返す。

「こんばんは。」

子どもたちは嬉しそうに笑い、そのまま家族と一緒に駅前通りを歩いて行った。

ソステヌートが、その後ろ姿を見送る。

「すっかり有名ですね。」

俺は肩をすくめた。

「正式な部隊名じゃないんだけどな。」

ペザンテが小さく頷く。

「良い名前。」

その一言に、思わず笑みがこぼれた。

「そうかもな。」

その時だった。

「待たせたな。」

マエストロが手を挙げながら歩いてきた。

今日は軍服ではない。

黒いジャケットに細身のパンツ。

夜の街へ遊びに来たような服装だった。

その隣には、一人の女性。

ジョコーソだった。

私服姿でも凛とした雰囲気は変わらない。

「ワーッハッハ!」

「どうした少年たち。」

「そんなに固くなるな。」

豪快に笑いながら手を振る。

「こんばんは。」

俺たちはそろって頭を下げた。

その時。

ソステヌートが俺へ耳打ちした。

「隊長。」

「近接戦闘をご教授くださった方です。」

「……あ。」

思い出した。

運動場。

約二百名の音術師。

マエストロの演説。

そして。

乾いた平手打ち。

『これが近接攻撃の恐ろしさだ。』

思わず吹き出しそうになる。

ジョコーソは照れくさそうに笑った。

「ワーッハッハ!」

「まだ覚えてたか。」

マエストロが肩をすくめる。

「忘れる方が難しいよ。」

ジョコーソは横目でマエストロを見る。

「今日は真面目な訓練だ。」

「余計なところへ目を向けるなよ、マエストロ。」

「善処します。」

「努力じゃ駄目だ。」

即答だった。

俺たちは顔を見合わせる。

軍団長。

やっぱり頭が上がらないらしい。

ジョコーソはすぐに表情を和らげ、俺たちを見る。

「ワーッハッハ!」

「安心しろ、少年。」

「今日は私も手伝う。」

「困ったら遠慮なく頼れ。」

姉御らしい笑顔だった。

「よろしくお願いします。」

俺たちも頭を下げる。

「よろしくお願いします。」



マエストロは腕時計へ目を落とした。

「時間だ。」

俺たち三人の前へ立つ。

戦場で見る、あの軍団長の顔だった。

「諸君。」

自然と背筋が伸びる。

「これより夜間訓練を開始する。」

「了解。」

三人の返事が揃う。

マエストロは静かに笑った。

「安心しろ。」

「今日の敵は――」

少しだけ間を置く。

「怪人より。」

「少しだけ手強い。」

俺たちは表情を引き締めた。

未知の怪人か。

新型か。

誰もがそう思った。

「ついて来い。」

マエストロは駅前通りを歩き始める。

ジョコーソも、その隣を歩く。

「ワーッハッハ!」

「さあ少年たち。」

「夜の勉強を始めようじゃないか。」

俺たちは顔を見合わせ、その背中を追った。

まだ知らない。

この夜向かう戦場では。

音響弾も。

防壁も。

隊形も。

戦術教本も。

ほとんど役に立たないことを。


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2026年07月06日