第49話『月夜の温泉』(前編)

第49話『月夜の温泉』(前編)


翌朝。

益田駐屯地には、久しぶりに静かな朝が訪れていた。

昨日まで空を震わせていた音響弾の轟音は、もう聞こえない。

怒号もない。

整備班が楽器を磨く金属音だけが、穏やかな空気へ静かに溶け込んでいた。

俺は執務室の扉を開ける。

「隊長、お疲れ様でした。」

副官・カンタービレが、書類の山から顔を上げた。

机の上には、会戦報告書や補給記録が積み上がっている。

戦いは終わった。

だが、その後始末はまだ終わっていない。

「残務処理はこちらで進めます。」

「今日は休養を取ってください。」

「いや、俺も手伝――」

「命令です。」

珍しく、有無を言わせない口調だった。

「敵味方ともに大きく消耗しています。」

「しばらく大規模な会戦はありません。」

「身体だけでなく、心も休ませてください。」

俺が苦笑すると、カンタービレも少しだけ表情を和らげた。

「それと。」

「昨日から、子ども達の間で第一トランペット遊撃隊が『ウルセンジャー』と呼ばれているそうです。」

「ああ。」

思わず笑う。

「校門で俺も言われたよ。」

「『ウルセンジャーのお兄ちゃん、ありがとう。』って。」

カンタービレは静かに頷いた。

「皆さん、とても嬉しそうでした。」

「そう。」

俺も小さく頷く。

それだけで十分だった。

カンタービレは書類を閉じる。

「だから今日は休んでください。」

「隊長が倒れたら、皆さんが困ります。」

「それも隊長の任務です。」

俺は観念して息を吐く。

「……分かった。」

益田駐屯地へ着任して、まだ一か月も経っていない。

それなのに、何か月も過ごしたような気がしていた。



リアルダは駐屯地へ残る。

負傷者の記録。

戦死者の名簿。

補給物資の確認。

情報士として、やるべき仕事は山ほどある。

「お気を付けて。」

そう言って敬礼するリアルダに、俺も敬礼を返した。

「温泉でも、ご無理はなさらないでくださいね。」

「了解。」

笑って返事をすると、リアルダも安心したように微笑んだ。

一人で列車へ乗り込む。

制服の袖には、まだ昨日の土埃が残っていた。

列車はゆっくりと山間を走る。

窓の外には、高津川。

昨日まで命を懸けていた場所とは思えないほど、穏やかに流れている。

山がある。

川がある。

田んぼがある。

どこかで子ども達の笑い声が聞こえる。

レールの音だけが、一定のリズムを刻み続けていた。



匹見温泉。

旅館へ着くと、女将が玄関で深々と頭を下げた。

「昨日は、本当にありがとうございました。」

それ以上、戦いの話はしない。

英雄扱いもしない。

静かに客室へ案内してくれる。

障子を開ける。

山々が夕日に染まり始めていた。

谷を渡る風。

川のせせらぎ。

鳥のさえずり。

聞こえてくるのは、それだけだった。

俺はようやく制服を脱ぐ。

胸ポケットへ手を入れた、その時だった。

「……あ。」

小さな飴玉が転がり落ちる。

ころん。

畳の上で、小さな音を立てた。

少しだけ形が崩れた飴玉。

しわの寄った包み紙。

俺はそっと拾い上げる。

『ウルセンジャーのお兄ちゃん。』

『ありがとう。』

あの笑顔が浮かんだ。

掌に乗せたまま、しばらく眺める。

やがて、机の上へ静かに置いた。

夕日が差し込み、小さな飴玉をやさしく照らしていた。



浴衣へ着替え、縁側へ腰を下ろす。

テレビもつけない。

本も読まない。

何もしない。

ただ、風に揺れる木々を眺めていた。

こんな時間は、いつ以来だろう。

夕方になると、女将が懐石料理を運んできた。

「お酒はいかがですか?」

「いえ……飲めないんです。」

女将は柔らかく微笑む。

「では、温かいお茶をご用意しますね。」

穏やかな夕食だった。

誰も昨日の戦いには触れない。

それが、今はありがたかった。

食事を終え、部屋へ戻る。

机の上では、小さな飴玉が月明かりを受けて静かに光っていた。

俺は窓を開ける。

夜風が頬をなでた。

山の稜線から、ゆっくりと満月が姿を現す。

「……少し、温泉に入るか。」

そう呟き、静かに立ち上がる。

机の上に飴玉を残したまま。

俺は月明かりに照らされた露天風呂へ向かった。


第50話『月夜の温泉』(後編)
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ウルセンジャー小説ガイド
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2026年07月04日