第50話『月夜の温泉』(後編)
第50話『月夜の温泉』(後編)
夜風が心地よかった。
下駄を鳴らしながら、露天風呂へ続く石畳を歩く。
見上げれば、満月。
昼間とは違う静けさが、山あいの温泉を包み込んでいた。
暖簾をくぐる。
誰もいない。
湯けむりだけが、ゆっくりと夜空へ溶けていく。
俺は静かに湯へ身体を沈めた。
「ふぅ……。」
思わず息が漏れる。
張りつめていた肩の力が、少しずつ抜けていく。
目を閉じる。
聞こえるのは、
川のせせらぎ。
虫の声。
風に揺れる木々。
それだけだった。
どれくらい、そうしていただろう。
頬を、温かいものが伝った。
「……あれ。」
指で触れる。
涙だった。
悲しい訳じゃない。
苦しい訳でもない。
ただ、涙だけが静かに流れていく。
昨日まで胸の奥で張りつめていた何かが、
少しずつほどけていくようだった。
益田小学校。
仲間たち。
子ども達の笑顔。
机の上へ置いてきた、小さな飴玉。
「……泣きたいのは、こっちよ。」
女性の声だった。
振り返る。
湯けむりの向こうに、一人の人影が立っていた。
月明かりを浴びた長い栗色の髪。
整った横顔。
白い湯けむりの向こうでも分かるほど、美しい外国人女性だった。
「えっ……。」
思考が止まる。
(男湯……だよな?)
慌てて湯船の隅へ移動する。
女性は、その様子を見て小さく笑った。
「そんなに慌てなくても。」
そのまま湯へ入り、少し離れた場所へ静かに腰を下ろす。
心臓がうるさい。
昨日の戦いより、今の方がずっと鼓動が速かった。
しばらく沈黙が続く。
湯の音だけが静かに響いていた。
やがて女性が、小さく息をつく。
「昨日は、あんなに勇敢だったのに。」
「今は、すっかり借りてきた猫ね。」
思わず苦笑する。
「こういうのは……慣れてなくて。」
「ふふっ。」
楽しそうに笑う。
その笑い声は、不思議と心地よかった。
また静かな時間が流れる。
女性は夜空を見上げたまま、小さく口を開いた。
「理不尽な婆さんや、暴走キツネに振り回されて。」
「あなたも大変ね。」
思わず笑ってしまう。
「……それは、本当にそう思います。」
二人同時に吹き出した。
笑い声はすぐに静まり、
また月を見上げる。
女性が静かに呟く。
「ねぇ。」
「あのオレンジ色の光。」
「鳥みたいだったけど。」
「あれは何だったの?」
俺はゆっくり首を横へ振る。
「分かりません。」
「本当に、何も。」
女性は俺の横顔をしばらく見つめていた。
やがて、小さく微笑む。
「……そう。」
それ以上は聞かなかった。
俺も何も聞かなかった。
二人とも黙ったまま、
ただ月を見上げていた。
風が吹く。
湯けむりが静かに流れる。
一枚の木の葉が、音もなく湯船へ落ちた。
どれくらい時間が過ぎただろう。
女性が、小さく呟く。
「それにしても……。」
「お月様が、とても綺麗ね。」
俺も夜空を見上げる。
「……ええ。」
本当に綺麗だった。
その一言だけで十分だった。
言葉はいらない。
月が静かに夜を照らしていた。
ふと風が吹く。
湯けむりがゆっくりと流れる。
何気なく隣を見る。
そこには、もう誰もいなかった。
「……あれ?」
湯船には俺一人。
静かな夜だけが続いていた。
◇
部屋へ戻る。
障子を開けると、
机の上の小さな飴玉が、月明かりを受けて静かに輝いていた。
俺は飴玉を手に取る。
少しだけ形の崩れた、小さな飴玉。
掌へ乗せたまま、窓の外を見る。
山陰の山々の上には、
変わらず満月が浮かんでいた。
さっきまでの出来事は、
夢だったのか。
それとも、本当にあったことだったのか。
答えは分からない。
俺は飴玉をそっと机へ戻し、
静かに障子を閉めた。
月明かりだけが、
静かな客間を照らしていた。
― 月夜の温泉・完 ―
第51話『トラウマ』
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