第51話『トラウマ』
第51話『トラウマ』
――クスクス。
また聞こえる。
――先輩はいくら練習しても上手くならない。
笑い声が遠くで重なった。
夕暮れのグラウンド。
トランペットを握った学生が一人、うずくまっている。
肩が震えていた。
泣いている。
誰かが慰めてやればいい。
そう思って、一歩踏み出そうとした。
……いや。
違う。
あれは――俺だ。
士官学校時代の、俺だ。
息が詰まる。
音が鳴らない。
何度吹いても。
何度練習しても。
音は狙った場所へ飛ばなかった。
弾道計算。
音術師なら誰もが身につける基礎。
俺だけが、最後まで苦手だった。
――レッド様。
優しい声だった。
意識が現実へ引き戻される。
「え……?」
目を開ける。
白い歯が見えた。
褐色の肌。
ベッドの横で、リアルダが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「凄い汗ですよ。」
ハンカチが額に触れた。
冷たかった。
「……これが悪の皆様なら、首を取られてたな。」
思わず口をついて出る。
自分でも何を言っているのか分からない。
リアルダは小さく笑った。
「そうですね。」
その笑顔を見て、ようやく息が整う。
ここは益田駐屯地の宿舎。
士官用の個室ではない。
隊員たちと同じ建物。
廊下の向こうから笑い声も聞こえる。
一人になるのが怖くて、自分でここを選んだ。
「リアルダ。」
「はい。」
「この前は……悪かった。」
先日の運動会会戦。
彼女は風速も湿度も仰角も斜角も計算し尽くしていた。
俺は、その初弾を盛大に外した。
沈黙。
リアルダは首を横に振った。
「レッド様は、私の言葉を受け入れてくださいました。」
「……。」
「それだけで十分です。」
短い言葉だった。
だが、その一言で胸のつかえが少しだけ軽くなる。
広島で、コン・ブリオ中級使いは言った。
『サポートは必要ない。』
悪意ではなかった。
彼ほどの音術師なら、それが事実だった。
それでも。
情報士としての自分は、少しだけ寂しかった。
だからこそ。
レッドが計算を信じ、失敗しても「悪かった」と言ってくれたことが嬉しかった。
「カンタービレ軍曹がお呼びですよ♪」
リアルダはいつもの笑顔に戻る。
「音術師様は国家の財産ですから。」
いつもの口癖。
俺も思わず笑ってしまった。
◇
「匹見温泉はいかがでした?」
会議室へ入るなり、カンタービレ軍曹が尋ねた。
「月が、とても綺麗でした。」
軍曹は静かに頷く。
本来なら俺が片付けるはずだった会戦後の報告書。
そのほとんどを、リアルダと軍曹が終わらせてくれていた。
「音術師様は国家の財産です。」
リアルダが胸を張る。
「その財産様に、新しい任務がありますわ。」
カンタービレ軍曹が封筒を差し出した。
「先日の会戦で助太刀してくださった、津和野大明神様の名代へ、お礼詣りをお願いいたします。」
名代。
あの小さな狐耳の少女。
敵も味方も関係なく暴れ回り、山陰遠征軍を撤退へ追い込んだ張本人。
あの自由人へ、お礼を言いに行くらしい。
「津和野の温泉も最高っスよ。」
スタッカートが笑う。
「隊長、ご同行よろしくお願いします。」
ペザンテは荷物を整えながら一礼した。
「今回は右翼・左翼混成チームですね!」
エネルジコは既にやる気満々だ。
「インスタで素敵なカフェを見つけましたわ。」
ドルチェがスマートフォンを見せる。
リアルダ。
カンタービレ軍曹。
スタッカート。
ペザンテ。
エネルジコ。
ドルチェ。
そして俺。
山陰支部でも珍しい編成だった。
右翼と左翼のサードだけを集めた、防御特化チーム。
普通なら、ここにセンターが入る。
……嫌な予感しかしない。
◇
益田駐屯地を出発する。
津和野までは車で一時間もかからない。
高津川沿いの道を走る。
窓を少しだけ開けると、山から流れてくる風が頬を撫でた。
夏が近い。
「島根は、ゆっくり走る車が多いな。」
「あぁ……隊長は山口でしたね。」
スタッカートが笑う。
「帰りに自販機のうどん食べません?」
エネルジコが身を乗り出す。
「駄目です。」
リアルダが即答した。
「冷凍パンがあります。」
「またパンっスか。」
「もちろん、レッド様の分もあります。」
車内に笑いが広がる。
何気ない時間だった。
日原を過ぎる。
赤い橋が見えた。
その先のトンネルを抜ける。
「……。」
思わずアクセルを緩める。
山々に囲まれた小さな盆地。
瓦屋根が静かに寄り添い、その真ん中を一本の川が流れている。
どこか懐かしい町並みだった。
「ここが……津和野か。」
誰も返事をしなかった。
窓から吹き込む風だけが、車内を静かに通り抜けていった。
第52話『津和野』
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