第48話『帰る場所』
第48話『帰る場所』
「レッド君。」
マエストロが肩を組みながら、満足そうに笑った。
「音術の極意を教えてやろう。」
俺は思わず背筋を伸ばす。
「はい!」
昼間の戦場では聞けなかった。
北方戦線を十年以上生き抜いた男の言葉だ。
きっと大事な教えに違いない。
マエストロは人差し指を一本立てる。
「音術とは。」
「イメージだ。」
「はい!」
「己の楽器を愛せ。」
「はい!」
「仲間の楽器も愛せ。」
「はい!」
「そして――」
一拍置いて、ニヤリと笑う。
「複数の楽器を同時に愛せ。」
「なるほど。」
俺は真面目に頷いた。
「幅広い音楽知識ですね。」
「応用アンサンブルということですか。」
「そう!」
マエストロは嬉しそうに頷く。
「つまり女性も――」
「却下です。」
即答だった。
リアルダが、いつの間にか俺たちの後ろへ立っている。
「情報士権限により、その教育内容は検閲します。」
「えぇー。」
マエストロが肩を落とす。
「世知辛い世の中だなぁ。」
「世知辛くありません。」
リアルダは胸を張った。
「レッド様には健全な音術師として成長していただきます。」
「音術師様は国家の財産です。」
「はいはい。」
マエストロは苦笑しながらジョッキを持ち上げる。
「情報士には勝てないな。」
店中が笑いに包まれた。
アクセントは腹を抱えて笑い、
ブリランテは「リアルダさん強い!」とはしゃぎ、
スタッカートは「今日も完全敗北っスね!」と大笑いしている。
グラーヴェ軍曹でさえ、小さく肩を震わせていた。
その笑い声を聞きながら、
俺も自然と笑っていた。
その時だった。
テーブルの下で。
そっと。
誰かの指先が、俺の手へ触れた。
「……?」
驚いて横を見る。
リアルダだった。
何事もなかったように前を向き、
みんなと一緒に笑っている。
けれど。
テーブルの下では、
その小さな手が、そっと俺の手を包んでいた。
温かかった。
昼間、
情報端末を抱えて戦場を駆け回っていた手。
何度も俺を支え、
何度も「レッド様」と呼んでくれた手。
俺も何も言わなかった。
言葉にしたら、
この穏やかな時間が壊れてしまう気がした。
焼肉の煙。
七輪の赤い炭。
ジョッキの触れ合う音。
アクセントの豪快な笑い声。
ブリランテの楽しそうな声。
スタッカートの軽口。
ペザンテの静かな相づち。
グラーヴェ軍曹の低い笑い声。
マエストロの底抜けに明るい笑い声。
そして。
隣で微笑むリアルダ。
俺はふと、胸ポケットへ手を添えた。
そこには。
あの少女からもらった、
少しだけ溶けた飴玉が入っている。
今日守り抜いた、小さな勲章。
そして今。
もう一つ、大切なものがあった。
温かな手のぬくもり。
母さんの手とは違う。
だけど。
逃げるように北方戦線へ来た俺にも、
「帰る場所」ができた。
そんな気がした。
窓の外では、
山陰の夜風が「山牛」の暖簾を優しく揺らしている。
今日という一日は終わる。
けれど、
ここから始まる日々は、
もう一人ではない。
リアルダの手は、
宴がお開きになるまで、
最後まで離れることはなかった。
暖簾が、もう一度だけ静かに揺れる。
山陰の夜は、
どこまでも穏やかだった。
― 運動会の会戦・完 ―
第49話『月夜の温泉』(前編)
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