第38話『消耗戦』(後編)

第38話『消耗戦』(後編)


俺自身も、とっくに限界を迎えていた。

初陣で撃ち過ぎた音響弾。

マウスピースへ押し当て続けた唇の裏側は、何ヶ所も裂けている。

口の中は、生温かい鉄の味で満たされていた。

ふと。

脳裏に、あの鬼教官――フォルテ司令官の姿が浮かぶ。

アカデミー卒業試験。

突如乱入してきた上位ランクの悪のみなさん。

それを。

たった一本のトランペットだけで。

一人で蹴散らした伝説の特級音術師。

(こっちは……。)

(地方支部総力を挙げても。)

(Bランク一体を止めるので精一杯なのに。)

思わず苦笑する。

(あの人は。)

(本当に化け物だったんだな……。)

急激な疲労が襲う。

視界が揺れる。

音が遠ざかる。

それでも。

会戦は止まらない。

軽奏歩兵隊は撃ち続ける。

重奏歩兵隊は戦列を支える。

重奏防壁兵隊は、穴の開いた音響防壁を低音で繋ぎ直す。

左右の遊撃隊は、わずかな隙を探し続ける。

約二百名の音術師が奏でる

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

誰一人、その音を止めようとはしなかった。

◇

敵陣中央。

山陰方面遠征軍軍団長アラクネもまた肩で息をしていた。

栗色の髪は土埃にまみれ、

蜘蛛脚の一本には大きな亀裂が入っている。

それでも。

「右翼……。」

かすれた声が響く。

「まだ前を向きなさい。」

「了解。」

カリストスは短く応じる。

左翼では。

メリッサが汗を拭った。

「軍団長。」

「今日は本当にしぶといですね。」

アラクネは小さく笑う。

「あなた達ほどじゃないわ。」

一瞬だけ笑みがこぼれる。

「……もう怒る元気もないわ。」

三人は顔を見合わせ、小さく笑った。

その向こうでは。

蜘蛛紋章の兵たちが互いを支え合いながら、なお前を向いている。

古代から続くレギオン。

今日もまた、静かに戦っていた。

◇

「右翼!」

マエストロの怒声が響く。

「まだ終わっちゃいない!」

「重奏歩兵隊!」

「前を支えろ!」

「防壁兵隊!」

「防壁を繋げ!」

「遊撃隊!」

「敵指揮官を見失うな!」

怒号が飛ぶ。

演奏が続く。

悲鳴が響く。

それでも軍団は前へ進み続けた。

俺だけが。

その流れから少しずつ遠ざかっていく。

膝が笑う。

指先へ力が入らない。

息を吸うだけで胸が痛い。

それでも。

ベルだけは下ろさなかった。

その時だった。

どこか懐かしい。

優しい女性の声が耳へ届く。

『お友達が待ってるわよ。』

『私のかわい子ちゃん。』

――母さん。

幼い頃。

泣いて帰った俺の頭を撫でながら、いつも笑ってくれた声。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

もう一度。

その声を聞きたくて。

俺はゆっくり顔を上げた。

霞んだ視界の向こう。

マエストロが叫ぶ。

グラーヴェ軍曹が戦線を支える。

カンタービレ軍曹が左翼を立て直す。

ジョコーソが耳を澄まし、崩れた音域へ混成サックス遊撃隊を送り続ける。

ブリランテが涙を流しながら吹いている。

アクセントが声を張り上げる。

ペザンテが仲間を背負って走る。

スタッカートが必死にベルを構える。

リアルダが情報端末を抱え、必死に俺を探していた。

誰も。

諦めていない。

誰も。

演奏を止めていない。

俺も。

まだ吹かなきゃ。

そう思った。

その瞬間――。

意識は静かに闇へ沈んでいった。

足元の土が、ゆっくり傾く。

「レッドーーッ!!」

誰かの叫びだけが、遠く響いた。

そして世界は、音もなく闇に溶けていった。


第39話『山陰の守護神』
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2026年07月04日