第38話『消耗戦』(後編)

第38話『消耗戦』(後編)


俺自身も、とっくに限界を迎えていた。

初陣で撃ち過ぎた音響弾。

マウスピースへ押し当て続けた唇の裏側は、何ヶ所も裂けている。

口の中は、生温かい鉄の味で満たされていた。

ふと。

脳裏に、あの鬼教官――フォルテ司令官の姿が浮かぶ。

アカデミー卒業試験。

突如乱入してきた上位ランクの悪のみなさん。

それを。

たった一本のトランペットだけで。

一人で蹴散らした伝説の特級音術師。

(こっちは……。)

(地方支部総力を挙げても。)

(Bランク一体を止めるので精一杯なのに。)

思わず苦笑する。

(あの人は。)

(本当に化け物だったんだな……。)

急激な疲労が襲う。

視界が揺れる。

音が遠ざかる。

それでも。

会戦は止まらない。

軽奏歩兵隊は撃ち続ける。

重奏歩兵隊は戦列を支える。

重奏防壁兵隊は、穴の開いた音響防壁を低音で繋ぎ直す。

左右の遊撃隊は、わずかな隙を探し続ける。

約二百名の音術師が奏でる

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

誰一人、その音を止めようとはしなかった。



敵陣中央。

山陰方面遠征軍軍団長アラクネもまた肩で息をしていた。

栗色の髪は土埃にまみれ、

蜘蛛脚の一本には大きな亀裂が入っている。

それでも。

「右翼……。」

かすれた声が響く。

「まだ前を向きなさい。」

「了解。」

カリストスは短く応じる。

左翼では。

メリッサが汗を拭った。

「軍団長。」

「今日は本当にしぶといですね。」

アラクネは小さく笑う。

「あなた達ほどじゃないわ。」

一瞬だけ笑みがこぼれる。

「……もう怒る元気もないわ。」

三人は顔を見合わせ、小さく笑った。

その向こうでは。

蜘蛛紋章の兵たちが互いを支え合いながら、なお前を向いている。

古代から続くレギオン。

今日もまた、静かに戦っていた。



「右翼!」

マエストロの怒声が響く。

「まだ終わっちゃいない!」

「重奏歩兵隊!」

「前を支えろ!」

「防壁兵隊!」

「防壁を繋げ!」

「遊撃隊!」

「敵指揮官を見失うな!」

怒号が飛ぶ。

演奏が続く。

悲鳴が響く。

それでも軍団は前へ進み続けた。

俺だけが。

その流れから少しずつ遠ざかっていく。

膝が笑う。

指先へ力が入らない。

息を吸うだけで胸が痛い。

それでも。

ベルだけは下ろさなかった。

その時だった。

どこか懐かしい。

優しい女性の声が耳へ届く。

『お友達が待ってるわよ。』

『私のかわい子ちゃん。』

――母さん。

幼い頃。

泣いて帰った俺の頭を撫でながら、いつも笑ってくれた声。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

もう一度。

その声を聞きたくて。

俺はゆっくり顔を上げた。

霞んだ視界の向こう。

マエストロが叫ぶ。

グラーヴェ軍曹が戦線を支える。

カンタービレ軍曹が左翼を立て直す。

ジョコーソが耳を澄まし、崩れた音域へ混成サックス遊撃隊を送り続ける。

ブリランテが涙を流しながら吹いている。

アクセントが声を張り上げる。

ペザンテが仲間を背負って走る。

スタッカートが必死にベルを構える。

リアルダが情報端末を抱え、必死に俺を探していた。

誰も。

諦めていない。

誰も。

演奏を止めていない。

俺も。

まだ吹かなきゃ。

そう思った。

その瞬間――。

意識は静かに闇へ沈んでいった。

足元の土が、ゆっくり傾く。

「レッドーーッ!!」

誰かの叫びだけが、遠く響いた。

そして世界は、音もなく闇に溶けていった。


第39話『山陰の守護神』
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2026年07月04日