第53話『盟約』

第53話『盟約』


石段をゆっくりと登る。

鳥居をくぐるたび、空気が少しずつ澄んでいくような気がした。

誰も喋らない。

スタッカートでさえ、軽口を飲み込んでいる。

山の風が杉の梢を揺らし、小さく葉擦れの音を立てた。

やがて社殿が姿を現す。

華美ではない。

だが、長い年月、人々の祈りを受け止めてきた重みがそこにはあった。

俺は自然と帽子を脱いでいた。

「……。」

言葉はいらなかった。

全員が静かに一礼する。

ドルチェが油揚げを丁寧に供え、

その隣へスタッカートたちが駄菓子の段ボールを並べていく。

「隊長。」

リアルダが小声で言う。

「こんなに駄菓子を奉納する方は珍しいでしょうね。」

「そうだな。」

少し笑う。

「でも、きっと喜んでくれる。」

手を合わせる。

目を閉じる。

「先日は助けていただき、ありがとうございました。」

風が吹く。

木漏れ日が足元を揺らした。

返事はない。

それで十分だった。



社殿の裏。

人の気配が届かない杉林。

紫色の尻尾が枝の上で揺れた。

「来たコン?」

軽やかに飛び降りる。

狐耳がぴくりと動いた。

「おぉ!」

少女は目を輝かせる。

和服姿の女が静かに頭を下げた。

「名代様。」

その後ろで、二人の近習も一礼する。

少女は得意そうに胸を張った。

「ウチは津和野大明神様直属の名代!

神獣カプリッチョ様だコン!」

近習の一人が桐箱を差し出す。

「京の主より、お預かりしております。」

蓋を開ける。

色鮮やかな京菓子が並んでいた。

「わぁ!」

耳がぴんと立つ。

「高級そうだコン!」

もう一人の近習が段ボールを運んでくる。

「こちらも。」

中身は駄菓子だった。

「全部くれるコン?」

「はい。」

少女は満面の笑みになる。

「ウチには子分がたくさんおるけん!」

「依り代の子らの分も不足なく用意しております。」

「さっすが!」

尻尾が嬉しそうに左右へ揺れた。

和服姿の女は社殿へ向き直る。

少しだけ表情が引き締まる。

「主より、お言葉を預かっております。」

風が止んだ。

カプリッチョも和菓子を持つ手を止める。

表情から笑みが消える。

そして静かに口を開いた。

「──これは津和野大明神様のお言葉だ。」

森の空気が一変した。

「古き盟約に変わりはない。」

「土蜘蛛とは、これまで通り互いの領分を侵さぬ。」

「この地へ戦を持ち込む意思もない。」

一拍置く。

「子らが笑って暮らせるなら、それが一番良い。」

静寂。

杉木立を風が渡る。

和服姿の女が静かに頭を下げた。

「確かに、お伝えいたします。」

近習も深く一礼した。

その瞬間だった。

「……よし!」

カプリッチョが大きく伸びをする。

「お仕事終わりっ!」

「遊ぶコン!」

いつもの笑顔が戻る。

和菓子を一つ摘まみ、口いっぱいに頬張った。

「先日の会戦だけどさ!」

「運動会が楽しそうだったから遊びに行ったコン!」

「キャハハハ!」

腹を抱えて笑う。

和服姿の女は少しだけ困ったように微笑んだ。

「それだけでしたか。」

「それだけコン!」

「おもしろかったコン!」

近習たちは苦笑する。

しかし、和服姿の女だけは笑わない。

「ですが。」

空気が再び引き締まる。

「もし、御大のお身に万一のことがございましたら。」

近習二人も静かに目を伏せる。

「京都と津和野。」

「双方にとって戦となります。」

杉の葉が風に揺れた。

長い沈黙。

カプリッチョは少しだけ考える。

「なに、それ。」

にやりと笑う。

「キャハハハ!」

「おもしろそーコン!」

近習の一人が思わず額に手を当てた。

「名代様……。」

和服姿の女も小さくため息をつく。

「そのお言葉だけは……。」

「主には、どうか。」

「内緒だコン!」

少女は満面の笑みで親指を立てる。

「秘密は守るコン!」

その瞬間。

社殿の奥から。

――コォン。

鈴が一度だけ鳴った。

誰も顔を上げない。

和服姿の女も。

近習たちも。

カプリッチョでさえ。

ただ静かに頭を垂れた。

杉木立を抜ける風が、

何事もなかったように山を渡っていった。


第54話『討伐対象』
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2026年07月04日