第53話『盟約』
第53話『盟約』
石段をゆっくりと登る。
鳥居をくぐるたび、空気が少しずつ澄んでいくような気がした。
誰も喋らない。
スタッカートでさえ、軽口を飲み込んでいる。
山の風が杉の梢を揺らし、小さく葉擦れの音を立てた。
やがて社殿が姿を現す。
華美ではない。
だが、長い年月、人々の祈りを受け止めてきた重みがそこにはあった。
俺は自然と帽子を脱いでいた。
「……。」
言葉はいらなかった。
全員が静かに一礼する。
ドルチェが油揚げを丁寧に供え、
その隣へスタッカートたちが駄菓子の段ボールを並べていく。
「隊長。」
リアルダが小声で言う。
「こんなに駄菓子を奉納する方は珍しいでしょうね。」
「そうだな。」
少し笑う。
「でも、きっと喜んでくれる。」
手を合わせる。
目を閉じる。
「先日は助けていただき、ありがとうございました。」
風が吹く。
木漏れ日が足元を揺らした。
返事はない。
それで十分だった。
◇
社殿の裏。
人の気配が届かない杉林。
紫色の尻尾が枝の上で揺れた。
「来たコン?」
軽やかに飛び降りる。
狐耳がぴくりと動いた。
「おぉ!」
少女は目を輝かせる。
和服姿の女が静かに頭を下げた。
「名代様。」
その後ろで、二人の近習も一礼する。
少女は得意そうに胸を張った。
「ウチは津和野大明神様直属の名代!
神獣カプリッチョ様だコン!」
近習の一人が桐箱を差し出す。
「京の主より、お預かりしております。」
蓋を開ける。
色鮮やかな京菓子が並んでいた。
「わぁ!」
耳がぴんと立つ。
「高級そうだコン!」
もう一人の近習が段ボールを運んでくる。
「こちらも。」
中身は駄菓子だった。
「全部くれるコン?」
「はい。」
少女は満面の笑みになる。
「ウチには子分がたくさんおるけん!」
「依り代の子らの分も不足なく用意しております。」
「さっすが!」
尻尾が嬉しそうに左右へ揺れた。
和服姿の女は社殿へ向き直る。
少しだけ表情が引き締まる。
「主より、お言葉を預かっております。」
風が止んだ。
カプリッチョも和菓子を持つ手を止める。
表情から笑みが消える。
そして静かに口を開いた。
「──これは津和野大明神様のお言葉だ。」
森の空気が一変した。
「古き盟約に変わりはない。」
「土蜘蛛とは、これまで通り互いの領分を侵さぬ。」
「この地へ戦を持ち込む意思もない。」
一拍置く。
「子らが笑って暮らせるなら、それが一番良い。」
静寂。
杉木立を風が渡る。
和服姿の女が静かに頭を下げた。
「確かに、お伝えいたします。」
近習も深く一礼した。
その瞬間だった。
「……よし!」
カプリッチョが大きく伸びをする。
「お仕事終わりっ!」
「遊ぶコン!」
いつもの笑顔が戻る。
和菓子を一つ摘まみ、口いっぱいに頬張った。
「先日の会戦だけどさ!」
「運動会が楽しそうだったから遊びに行ったコン!」
「キャハハハ!」
腹を抱えて笑う。
和服姿の女は少しだけ困ったように微笑んだ。
「それだけでしたか。」
「それだけコン!」
「おもしろかったコン!」
近習たちは苦笑する。
しかし、和服姿の女だけは笑わない。
「ですが。」
空気が再び引き締まる。
「もし、御大のお身に万一のことがございましたら。」
近習二人も静かに目を伏せる。
「京都と津和野。」
「双方にとって戦となります。」
杉の葉が風に揺れた。
長い沈黙。
カプリッチョは少しだけ考える。
「なに、それ。」
にやりと笑う。
「キャハハハ!」
「おもしろそーコン!」
近習の一人が思わず額に手を当てた。
「名代様……。」
和服姿の女も小さくため息をつく。
「そのお言葉だけは……。」
「主には、どうか。」
「内緒だコン!」
少女は満面の笑みで親指を立てる。
「秘密は守るコン!」
その瞬間。
社殿の奥から。
――コォン。
鈴が一度だけ鳴った。
誰も顔を上げない。
和服姿の女も。
近習たちも。
カプリッチョでさえ。
ただ静かに頭を垂れた。
杉木立を抜ける風が、
何事もなかったように山を渡っていった。
第54話『討伐対象』
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