第37話『消耗戦』(前編)

第37話『消耗戦』(前編)


敵の隙を、俺たちの音が確かにこじ開けた。

そこへ決定的な楔を打ち込み、一気に前線を崩す。

そんな勝利への予感が、確かに脳裏をよぎった。

だが。

現実は甘くなかった。

約二百名の山陰支部。

約二百名の土蜘蛛軍団。

数だけなら互角。

しかし。

敵には山陰方面遠征軍軍団長アラクネ。

そして、古代から軍団を支え続けてきた二人の副官。

カリストス。

メリッサ。

三人の連携が、戦場の均衡を静かに支えていた。

俺たちが作った突破口は。

カリストスが塞ぐ。

左翼が揺らげば。

メリッサが繋ぐ。

中央では。

被弾したアラクネが泥だらけのまま立ち続けていた。

「右翼!」

カリストスの低い声が響く。

その声だけで、蜘蛛紋章の兵たちは迷いなく動く。

「左翼!」

メリッサが続く。

乱れた隊列は、瞬く間に整えられた。

俺は思わず息を呑む。

「……崩れない。」

リアルダは端末から目を離さない。

「隊列復元速度。」

「予測値を上回っています。」

崩れかけた敵戦線は、生き物のように息を吹き返していく。

その頃。

最後尾では、第一混成サックス遊撃隊を率いるジョコーソが静かに目を閉じていた。

見ているのではない。

聴いている。

高音の乱れ。

中音の揺らぎ。

低音の欠落。

約二百名が奏でる戦場全体の響きを、一つの音楽として聴いていた。

「……右前方。」

ソプラノ隊が駆け出す。

「中央。」

テナー隊が前線へ向かう。

「左後方。」

バリトン隊が防壁の穴を埋めに走る。

足りない音域へ。

必要な戦力だけを送り込む。

それが第一混成サックス遊撃隊。

ジョコーソの役目だった。

軽奏歩兵隊は、もう連続射撃を維持できない。

重奏歩兵隊も。

一歩前へ出るたび、誰かが膝をつく。

重奏防壁兵隊の音響防壁にも、少しずつ穴が開き始めていた。

それでも。

誰一人として持ち場を離れない。

約二百名の音響士が奏でる標準会戦陣形。

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

限界寸前の均衡だけが続いていた。

長い。

本当に長い時間だった。

乾いた運動場は。

両軍の血を吸い込み。

薄桃色の土煙が風に漂う。

敵陣中央。

アラクネは肩で息をしていた。

それでも。

蜘蛛脚を支えに立ち続ける。

「前衛!」

「その穴を埋めなさい!」

「保育隊!」

「子ども達から離れちゃダメよ!」

直後。

「ムキーーーーッ!!」

「そこ!」

「何やってるの!」

怒鳴られた戦闘員たちが慌てて隊列を戻す。

カリストスが苦笑する。

「軍団長。」

「落ち着いてください。」

「分かってるわよ!」

アラクネは頬を膨らませる。

「だからムキーってなるのよ!」

メリッサが思わず笑った。

「いつもの軍団長ですね。」

ほんの一瞬。

敵陣に笑みが広がる。

それでも隊列は崩れない。

マエストロが苦笑した。

「……あの三人。」

「息まで合ってやがる。」

グラーヴェが短く言う。

「千年。」

「伊達じゃねぇ。」

対するこちらも限界だった。

マエストロはソプラノサックスを背へ回し、バリトンサックスへ持ち替える。

指先から血が滲む。

それでも吹く。

吹き続ける。

「右翼!」

「弾幕が薄い!」

「音響団!」

「踏ん張れ!」

「重奏歩兵隊!」

「三歩前進!」

「ホルン!」

「左列を支えろ!」

「ユーフォ!」

「中央を埋めろ!」

怒号が飛ぶ。

音が飛ぶ。

血が飛ぶ。

それでも。

マエストロは一歩も退かなかった。

攻めるためではない。

皆を生きて帰すため。

戦線だけは崩さない。

その一心だった。

だが。

もう限界だった。

戦術ではない。

消耗だった。

どちらが先に力尽きるか。

そんな泥沼へ。

会戦は静かに姿を変えていた。

俺たち第一トランペット遊撃隊も。

一人。

また一人と膝をつく。

「隊長様……。」

ブリランテが涙を浮かべる。

「まだボク、吹けます!」

「隊長!」

アクセントが笑う。

「焼肉までは倒れません!」

ペザンテは黙って負傷者を運び続ける。

スタッカートも。

もう軽口を叩く余裕はなかった。

「リアルダ。」

「はい。」

「俺の背中から離れるな。」

「はい。」

情報士には。

自分を守る術がない。

だからこそ。

俺が守る。

それだけは決めていた。

戦場の空気が鉛のように重い。

敵も。

味方も。

限界だった。

それでも。

誰一人。

持ち場を離れない。

開戦から。

一時間近くが過ぎていた。


第38話『消耗戦』(後編)
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2026年07月04日