第84話『静寂の守り神』
第84話『静寂の守り神』
秋芳洞へ足を踏み入れる。
ひんやりとした空気が頬をなでた。
外は六月だというのに、
ここだけは別世界だった。
天井から垂れ下がる鍾乳石。
足元を静かに流れる地下水。
子どもの頃に見た景色が、
そのまま残っている。
「変わらないな……。」
思わずつぶやく。
リアルダが小さく頷いた。
「とても静かな場所ですね。」
「ああ。」
母さんが何度も連れて来た理由が、
今なら少しだけ分かる気がした。
◇
奥へ進むと、
迷彩服姿の地元音響団が数人集まっていた。
その先には、大きな地下湖。
湖面には白い霧が漂っている。
そして、その中央。
巨大な蛇のような姿が、
ゆっくりとこちらを向いた。
山と水を司る土地神――ミズチ。
その姿を前にしても、
誰一人として楽器を構えない。
音響団の一人が困ったように頭をかいた。
「ミズチ様ぁ。」
「お気持ちは分かるっちゃけどのんた。」
別の音響団員も苦笑する。
「昔から祭りも山焼きも、一緒に見守ってきたじゃろ。」
「今さら、そんなに怒らんでもええじゃないですか。」
ミズチは静かに目を閉じた。
「分かっとる。」
低く響く声が洞内へ広がる。
「山焼きは景観を守るため。」
「祭りは子どもらが笑うため。」
「ワシも、それは嫌いではない。」
少し間を置き、
ゆっくりと言葉を続ける。
「じゃが、最近は違う。」
「大勢の人間が押しかける。」
「叫ぶ。」
「岩を叩く。」
「静けさが失われていく。」
ミズチは湖面へ視線を落とした。
「ワシは……。」
「静かに生きたいだけじゃ。」
洞窟には、
水滴の音だけが響いていた。
◇
グラン閣下が一歩前へ出る。
「どうした。」
「へそでも曲げたか。」
ミズチは小さく笑う。
「グランか。」
「久しぶりじゃの。」
「また、小さいまま来おった。」
グラン閣下の眉がぴくりと動いた。
「誰が小学生じゃー!」
ボォンッ!!
チューバの重低音が洞窟を震わせる。
「うわぁっ!」
「きゃあっ!」
俺とリアルダは音圧に吹き飛ばされ、
仲良く岩壁の前まで転がった。
音響団員たちが苦笑する。
「始まった……。」
どうやら昔から変わらないやり取りらしい。
リアルダは制服についた砂を払いながら立ち上がる。
「音圧だけで、この威力ですか……。」
俺は頭をさすった。
「怒るところ、そこじゃないだろ。」
◇
ミズチは静かに笑みを消した。
「グラン。」
「お前と初めて戦ったのは、陸軍の砲兵訓練で、この山が荒らされた時じゃ。」
「……あの頃の方が、まだ静かじゃった。」
俺は思わずリアルダを見る。
リアルダも俺を見返し、
小さくつぶやく。
「太平洋戦争……ですよね。」
グラン閣下は黙ってチューバを軽く持ち上げた。
「フンっ。」
ボォンッ!!
「うわぁっ!」
「きゃっ!」
俺とリアルダは、また仲良く吹き飛ばされる。
転がりながら受け身を取り、
リアルダは起き上がると制服についた砂を払った。
「……少し慣れてきました。」
「慣れるな。」
思わずツッコミを入れる。
ミズチは小さく笑った。
「相変わらずじゃの。」
◇
グラン閣下は何事もなかったようにチューバを構える。
「どうしても引かんか。」
ミズチは静かに首を横へ振った。
「引けんな。」
「ここは、ワシの居場所じゃ。」
「そうか。」
短いやり取りだった。
音響団の面々は互いに顔を見合わせると、
静かに道を開ける。
誰も騒がない。
誰も叫ばない。
ただ、この場所の静けさを壊さないよう、
一歩ずつ後ろへ下がっていく。
その静寂の中で。
山陰の守護神と、
秋芳洞の守り神が、
静かに向かい合った。
第85話『山陰の守り神』
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