第84話『静寂の守り神』

第84話『静寂の守り神』


秋芳洞へ足を踏み入れる。

ひんやりとした空気が頬をなでた。

外は六月だというのに、

ここだけは別世界だった。

天井から垂れ下がる鍾乳石。

足元を静かに流れる地下水。

子どもの頃に見た景色が、

そのまま残っている。

「変わらないな……。」

思わずつぶやく。

リアルダが小さく頷いた。

「とても静かな場所ですね。」

「ああ。」

母さんが何度も連れて来た理由が、

今なら少しだけ分かる気がした。



奥へ進むと、

迷彩服姿の地元音響団が数人集まっていた。

その先には、大きな地下湖。

湖面には白い霧が漂っている。

そして、その中央。

巨大な蛇のような姿が、

ゆっくりとこちらを向いた。

山と水を司る土地神――ミズチ。

その姿を前にしても、

誰一人として楽器を構えない。

音響団の一人が困ったように頭をかいた。

「ミズチ様ぁ。」

「お気持ちは分かるっちゃけどのんた。」

別の音響団員も苦笑する。

「昔から祭りも山焼きも、一緒に見守ってきたじゃろ。」

「今さら、そんなに怒らんでもええじゃないですか。」

ミズチは静かに目を閉じた。

「分かっとる。」

低く響く声が洞内へ広がる。

「山焼きは景観を守るため。」

「祭りは子どもらが笑うため。」

「ワシも、それは嫌いではない。」

少し間を置き、

ゆっくりと言葉を続ける。

「じゃが、最近は違う。」

「大勢の人間が押しかける。」

「叫ぶ。」

「岩を叩く。」

「静けさが失われていく。」

ミズチは湖面へ視線を落とした。

「ワシは……。」

「静かに生きたいだけじゃ。」

洞窟には、

水滴の音だけが響いていた。



グラン閣下が一歩前へ出る。

「どうした。」

「へそでも曲げたか。」

ミズチは小さく笑う。

「グランか。」

「久しぶりじゃの。」

「また、小さいまま来おった。」

グラン閣下の眉がぴくりと動いた。

「誰が小学生じゃー!」

ボォンッ!!

チューバの重低音が洞窟を震わせる。

「うわぁっ!」

「きゃあっ!」

俺とリアルダは音圧に吹き飛ばされ、

仲良く岩壁の前まで転がった。

音響団員たちが苦笑する。

「始まった……。」

どうやら昔から変わらないやり取りらしい。

リアルダは制服についた砂を払いながら立ち上がる。

「音圧だけで、この威力ですか……。」

俺は頭をさすった。

「怒るところ、そこじゃないだろ。」



ミズチは静かに笑みを消した。

「グラン。」

「お前と初めて戦ったのは、陸軍の砲兵訓練で、この山が荒らされた時じゃ。」

「……あの頃の方が、まだ静かじゃった。」

俺は思わずリアルダを見る。

リアルダも俺を見返し、

小さくつぶやく。

「太平洋戦争……ですよね。」

グラン閣下は黙ってチューバを軽く持ち上げた。

「フンっ。」

ボォンッ!!

「うわぁっ!」

「きゃっ!」

俺とリアルダは、また仲良く吹き飛ばされる。

転がりながら受け身を取り、

リアルダは起き上がると制服についた砂を払った。

「……少し慣れてきました。」

「慣れるな。」

思わずツッコミを入れる。

ミズチは小さく笑った。

「相変わらずじゃの。」



グラン閣下は何事もなかったようにチューバを構える。

「どうしても引かんか。」

ミズチは静かに首を横へ振った。

「引けんな。」

「ここは、ワシの居場所じゃ。」

「そうか。」

短いやり取りだった。

音響団の面々は互いに顔を見合わせると、

静かに道を開ける。

誰も騒がない。

誰も叫ばない。

ただ、この場所の静けさを壊さないよう、

一歩ずつ後ろへ下がっていく。

その静寂の中で。

山陰の守護神と、

秋芳洞の守り神が、

静かに向かい合った。


第85話『山陰の守り神』
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2026年07月15日