第26話『運動会の会戦』第1部

第26話『運動会の会戦』第1部


4月下旬。

益田駐屯地に、一本の無線が入った。

空はよく晴れていた。

駐屯地の向こうに見える山の稜線には、薄い雲がゆっくりとかかっている。

風はまだ少し冷たい。

けれど、日差しの中には初夏の匂いがあった。

俺は宿舎の窓から、その空をぼんやり眺めていた。

逃げてきた。

母さんの死から。

スカーレットという名前から。

士官学校の視線から。

フォルテ教官の影から。

全部から逃げて、俺はここに来た。

特級使いが簡単には派遣されない北方戦線。

誰も、俺を英雄の息子として見ない場所。

そう思っていた。

机の上には、俺のトランペットが置かれている。

ヤマハ・ニューヨークモデル。

朝日を受けたベルが、静かに光っていた。

「……何とかなるさ」

小さく呟いた。

自分に言い聞かせるための言葉だった。

その時だった。

廊下の向こうから、足音が近づいてきた。

コンコン。

扉が叩かれる。

「レッド様」

褐色の肌。

短く整えた髪。

華奢な身体に、情報士の制服。

リアルダだった。

いつも柔らかく笑う彼女の顔が、その朝だけは少し硬かった。

「緊急出動です」

俺は反射的に立ち上がった。

「場所は」

「益田市立益田小学校です」

リアルダは端末を開いた。

画面に、校舎の写真と地図が映る。

町の中にある、本当に普通の小学校。

校舎。

体育館。

運動場。

通学路。

そのどれもが、戦場という言葉からは遠すぎた。

「地元音響団から、益田駐屯地へ救援要請が入りました」

「敵は」

「悪のみなさんです」

口の中が乾いた。

「規模は」

リアルダは、一瞬だけ黙った。

その沈黙で、だいたい分かった。

「……大軍勢です」

窓の外で、鳥が一羽鳴いた。

やけに澄んだ声だった。



駐屯地の格納庫前には、すでに山陰西部方面第一トランペット遊撃隊の面々が集まっていた。

俺の部隊だ。

そう言うと、今でも少しだけ背中がむず痒くなる。

「隊長!」

一番大きな声で駆け寄ってきたのは、アクセントだった。

熱血漢。

一番声が大きい。

そして、何をするにも前のめり。

「いつでも行けます! 俺が道を開きます!」

「道を開く前に、命令を聞け」

「了解です! 命令を聞いてから道を開きます!」

あまり変わっていない。

その横で、スタッカートが軽い調子で手を振る。

「隊長、顔色悪いっすよ。朝ごはん抜きました?」

「緊張してるだけだ」

「え、会戦で緊張してるんすか?」

悪気はなかった。

たぶん。

俺は返事に詰まった。

スタッカートは、そこで初めて「あ」と口を閉じる。

ペザンテが大きな身体で、黙ってスタッカートの肩を掴んだ。

「……隊長は、本部から来たばかりだ」

「そ、そうっすよね。すみません」

スタッカートは頭をかいた。

会戦。

その言葉が、ここでは当たり前に使われている。

俺だけが、まだその重さを知らない。

「隊長様!」

明るい声が跳ねた。

ブリランテだった。

元気な後輩。

一人称は、ボク。

そして俺のことを、なぜか最初から隊長様と呼ぶ。

「隊長様、ボクのダブルタンギング、今日は絶好調です! 連弾で敵の足を止めます!」

「頼りにしてる。でも飛ばし過ぎるなよ」

「はい! 飛ばし過ぎない程度に、全力で飛ばします!」

やっぱり不安だった。

左翼の方では、カンタービレ軍曹が整列を済ませていた。

きっちり揃えたショートカット。

真っ直ぐな背筋。

涼やかな目。

教範をそのまま人間にしたような女性だった。

「レッド隊長」

「カンタービレ軍曹」

俺が敬礼すると、彼女も綺麗に敬礼を返した。

「右翼の皆様、少々声が大きすぎますわ」

「否定できない」

「その楽観的な考え方は感心しませんわ」

いきなり口癖が飛んできた。

彼女の後ろでは、左翼隊が静かに準備を進めている。

ソステヌートは、暗譜した曲順を小声で確認していた。

レガートは、右翼との間隔を測るように視線を動かしている。

エネルジコは、靴紐を結び直していた。

ドルチェは、予備の水筒を丁寧に並べている。

グラツィオーソは、ただ黙って、トランペットのベルを布で拭いていた。

右翼は勢い。

左翼は規律。

その真ん中にいる俺が、一番頼りない。

笑えない冗談だった。

「レッド様」

リアルダが俺の横に並ぶ。

「音術師様は国家の財産です。どうか、無茶だけはなさらないでくださいね」

「努力する」

「努力ではなく、確約が欲しいです」

「……何とかなるさ」

リアルダは、少しだけ眉を下げた。

「それが一番不安です」


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2026年07月04日